浜居場城

これまで数回探訪してきた浜居場城跡ですが、今回は少し時間をかけて撮影してみました。
ハマイバとは破魔射場と解することができ、太古の昔にはこの辺りで占いの行事が行われていたといいます。この古い山岳信仰は各地に広がり、ハマイバを付す地名を残すことになります。

位置
南足柄市にある「21世紀の森」を抱える山で、その尾根続きの標高700mの頂きにあります。

時代
大森寄栖庵(きせいあん)の持城であったとされるのが文献に見られますが、築城は大森氏が西相模に進出した14世紀末まで遡れると考えられます。
時代が下り16世紀、後北条氏により足柄一帯が支配されると、対立する武田氏との戦に備えた足柄城の出城の役割が大きくなりました。足柄山地の尾根上の重要な拠点だった要塞の性格が伺えます。


21世紀の森 セントラル広場の道標

「21世紀の森」駐車場から45分で尾根上にあるセントラル広場、さらに防災無線塔(現携帯電話基地局)脇を経て30分で浜居場城跡へ着きます。


現地説明版

浜居場城跡

 浜居場城は中世城郭であり、『新編相模国風土記稿(しんぺんさがみのくにふどきこう)』によれば、大森寄栖庵の持城で、後に後北条氏が国境防備の拠点として重臣の松田氏を守衛に任じ、須藤源二郎、村野安芸守、小澤孫七郎の三人を城番として交代で警備にあたらせたとあります。浜居場城は足柄峠から内山へ
と抜ける尾根道の途中にあり、この道を守るための城でした。
 後北条氏は「はまいは掟(おきて)」および「掟」という二通の掟を定め、浜居場城と足柄峠の問の道を通行禁止にし、昼夜問わず監視をさせ、通行するものは捕まえて小田原へ報告するようにとありました。浜居場城は対立が深まる甲斐の武田氏への国境防御の城として重要な役割を果たしました。

 平成二十一年三月 南足柄市教育委員会

現地説明版より転載


山北町向原地区から浜居場城山を遠望 (2005年撮影)

2005年撮影時の山頂

この当時はアオキなどの低木が繁茂し、地形を認識しづらい状態でした。


かつてあった木製の説明板


現場地図
小田原市史 別編 城郭 浜居場城以降概略図を編集   クリックで拡大

現在のハイキングコースは4WD軽トラックなら通行できそうな状態で、砕石が撒かれ、幅員も1.5m程度あります。そのため西側の虎口付近の地形が壊されてしまった可能性も残ります。
私は虎口の土橋を探した際、詳細な地図を持参していなかったため(箱根をめぐる古城30選の見取図のみ)、堀切の位置を40m西の鞍部と誤認してしまい、調査漏れとなってしまいました。
地図に示した赤い線は現在のハイキングコースを示します。
破線部は記憶が曖昧な箇所です。西側の堀切などの調査をされた方はご一報いただけると幸いです。

浜居場城の主(本城)郭の南側からの360°VR

浜居場城の主(本城)郭の西側土塁 360°VR


ハイキングコースを横断する西側の空堀

識別しやすくするために写真上にグリッドを加筆しました。


ハイキングコースを横断する東側の空堀

関連:浜居場城の位置 ウォっちず 外部リンク

   

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