(12)大窪 押立山と鳥手山の間の鞍部一帯は「大窪」と呼ばれています。
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 押立山から大窪までの道は多少不明瞭な状態になっていました。ただ、樹木にスプレーでペイントされた目印が所々にあるので、間違えることはないと思います。
 大窪を過ぎると再び登りになります。目指すは1/25000地形図にも掲載されている「鳥手山(とでやま)」ですが、道は山頂には伸びず、西側を迂回しています。谷峨駅へは恐らくこの道を進んでいけばたどり着けるのだと思いますが、今回は少し引き返し鳥手山山頂を訪れてみました。
 大窪から鳥手山山頂へは南斜面の杉・檜の森の杣道を登ります。かなり荒れているので、これまでのペースでは進めなくなります。
 鳥手山(とでやま)は砦山とも解することができますが、風土記稿にはカタカナでトテヤマという記載があります。
<<(12)大窪に咲いていた山桜
(13)鳥手山(とでやま)山頂近景
 山北町史によれば鳥手山城があったということですが、特に目立った遺構や地形は見当たりませんでした。このあたりも宝永の噴火によって当時の地面は数メートル下に埋もれているものと考えられます。
内山村絵図や現在の字名が記された地図によると、このあたりが「立山」と呼ばれていたと思われます。鳥手山とピークを共有しています。地図参照>> 
 字名から判断するに、鳥手山は西にある谷ヶ村側の呼称なのかもしれません。村境や入会山の割当では、山というものが現在のように山頂を中心とした塊をなすのではなく、東面・西面といったような分け方があっても不思議ではないと考えられます。
 今回は便宜上、鳥手山(665m)の北部にあるピークを立山としました。
(14)立山山頂からの風景
(14)立山山頂
 
道らしい道はありませんでした。
(14-15)尾根を進む
 ヤブ漕ぎで進路を間違えること数回
(15)なんとか道へ復帰 (16)近野山分岐
左には登山道が続いていますが、近野山山頂方向へは道らしいものはありません。
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